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 2018年6月25日(月)

東北関東大震災における宮城県被災地支援報告by中村

  • 2011年4月 2日(土)
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    2,828

中村琢弥です。
2011年3月28-31日にかけて、東北関東大震災に対しての被災地支援に行ってきましたので
その報告を行います。

 2011年3月11日に発生した東北関東大震災にて多くの被害が生じ、現在各地で被災地心活動が活発に行われています。私も支援を行いたい!と思っていた時に、「京都北部からも一人医師を派遣に出そうと思うんだけど、どう?」とお声がかかりまして、3月28日から31日までの3泊4日のスケジュールで宮城県に乗り込むチャンスを得ることができました。

 東北関東大震災における宮城県被災地支援報告

私が行きました地区は宮城県塩釜市と多賀城市のちょうど間あたりにある「坂総合病院」になります。

被災直後から災害支援のベース基地として機能してきた同病院では被災から2週間たった今、約150名規模の支援者(医師、看護師などコメディカル、事務職員含む)が日夜出入りしています。

市の職員や保険所職員、近隣大学関係者も出入りし、盛んに本部で意見が交わされていたのが印象的でした。私はその中で医師として支援者活動に従事することになりました。

1,避難所回り
まず現地にて最初に任命されたのが各地に点在している避難所を回って健康相談を請け負う、というものでした。私がこの4日間で回った避難所は大小合わせて4カ所です。多くは小学校や中学校、文化センターなどがその場所として指定されており、大きいところでは千人規模の方が避難されていたとのことです。

しかし、すでに災害から2週間が経過しているため、小さな避難所はどんどん閉じられていて、大きな整った避難所に集約化されているようでした。印象的だったのは、私が最初に訪れた避難所で話しかけた方でした。

その避難所はすでに数人しか避難者がおらずその方も近日中に次の避難所にいく事になっていたのですが、「みんな行ってしまった…淋しい…」としきりにおっしゃられていました。話を聞くと家も全て津波で流されてしまい命からがら逃れてきたそうです。

内服薬はもっておられましたが、ひとしきり話を伺い、避難所の責任者と話をしてフォローしていただくようお願いして後にしました。普段なら安定している方がこの災害によって様々な影響をうけ、健康被害を受けている例を多く経験しました。

また避難所は整ってはきているものの、劣悪な環境には変わりなくその中で上気道炎、インフルエンザ、胃腸炎などのプライマリ疾患に罹患するケースも散見されました。

とくにインフルエンザや胃腸炎は避難所内で蔓延する可能性も高く隔離の必要があり、その場所の確保や回りの方への心身両面への影響を考慮しての行動は慎重な対処を求められる難しいものでした。

東北関東大震災における宮城県被災地支援報告

2,支援病院ER勤務
私は「総合内科」医師として登録されていた(ホントは家庭医ですが)こともあり、期間中にER勤務の支援を行う機会を得ました。時間帯は17時から翌朝の8時半までの勤務で、主に救急車対応を請け負うこととなりました。この番は合計11台の救急車が訪れました。

災害が発生して数日は40台前後の救急車が訪れていたということでしたので、それに比べるとずいぶん数は落ち着いたと言えるかと思われます。しかし、内容としては災害によって不安症状を訴える人や、避難所で内服薬を全て流されてしまいてんかん発作のコントロールが不良となった人、避難所生活による脱水のため尿管結石や脳梗塞を発症した人など、災害の影響を色濃く残す二次救急が多く来院したのが印象的でした。

私個人としてはこれまで救急も含めてトレーニングしていただいた事に感謝しつつ、その力を発揮して問題解決にお役に立つことができたと思われます。最後の方は他院へ搬送となったのですが、搬送中に救急隊の方と少し話をする機会を得ました。

その方は親戚の方を何人か亡くされたとのことでした。本来なら土葬が先日あったのですが、職務のためそれに参加することもままならなかったとのことです。そんな中でもこのベース基地となっている病院の持つ役割はとても大きく、救急隊員としてもとても頼りにしているとのことを話され、様々な職種がそれぞれの立場から現状を一生懸命乗り切ろうとしていることが印象的でした。

東北関東大震災における宮城県被災地支援報告

3,災害の爪痕
支援勤務の合間に街の様子を見て回る機会を得ました。
病院から200mほど車で走りましたら、津波の被害を受けた家屋が現れてきます。そして、海岸に近づくにつれ、その被害の大きさに驚くばかりでした。家は丸ごと破壊され、車はひしゃげ、船が道ばたに乗り上げられたまま放置され、信号はところどころ機能しておらず、辺りは瓦礫と埃にまみれていました。

いたるところで復興に向けて片付けが急ピッチで行われています。2週間も立つと店が開店しはじめており、生鮮食品なども並ぶようになっていましたが、その前には人の列が出来ていました。私たちを案内してくれた方が行きつけの店の前を通ったのでその方と話をする機会を得ました。

アパート一階に構える店はほぼ全壊していましたがアパートそのものの基礎はしっかりしていましたので、また片付けてこの地に店を構えるそうです。まだ水道が復旧していないので片付けも思うように進まないようでしたが、今後の再興を祈るばかりでした。

東北関東大震災における宮城県被災地支援報告

4,支援を終えて
全4日間の支援を終え、帰宅の途につく中でこの記事を書いております。ニュースではほとんどが原発関連のことが大きく取り上げられていますが、現地ではそれだけでなく、津波や地震で被害を受けた方が多くおり、様々な形で苦難を強いられています。

医療者として乗り込み、一定のお役に立つことができたとは思うのですが、総じて感じるのは、医療だけでなく総合的なサポートが、長期的、組織的に必要な状況であるということです。街は半壊し、その機能のほとんどが失われ、大切な人を失った人もいる中で、多くの方がそれぞれに力になることが必要なのではないかと感じました。

またこれは宮城県のごく一部のレポートであり、これと同様、もしくはもっと悲惨な事態が今回は広範囲に発生していることも忘れてはなりません。もしかすると今も支援の手が及んでいない地もあり、その方々は餓えや寒さにさらされているかもしれず、その全貌を明らかにしていくことも大切なことだと感じます。

現在行政の他、様々な団体が支援の力を注いでいるわけですが、それらが上手く連携し、有効な形で被災地の力になることが求められているのです。私の現地での活動はこれで一旦終わりますが、これからも私に出来ることをしっかり考え、支援を続けていくことを改めて考えさせられました。

東北関東大震災における宮城県被災地支援報告

報告は以上です。この報告が多くの方にとって、支援の参考になることを願います。